世界を飛び回る
本当は「がんばる人」
Minoru
Kamata
鎌田 實さん
(医師)
はじめは本の執筆依頼を
断っていました
——鎌田先生が一番最初に出版された本はどのような本でしょうか?
鎌田:医師や看護師に向けて『医療がやさしさをとりもどすとき—地域と生きる諏訪中央病院の実践』(医歯薬出版、1996年)という本を書いたのが最初です。医療従事者の方々に「やさしさ」という視点が欠けているのではないかという問題提起のもとに書きました。専門書なので一般の方にはあまりピンとこないかもしれませんが。
一般の方に僕が作家として知られるようになったのは『がんばらない』(集英社、2000年)だと思います。この本のお話をいただいたとき、最初は執筆を断っていたんです。当時は地域医療をやるのに必死だったので、本を書くことまで手が回らないと考えていました。『ラジオ深夜便』(NHKラジオ第1)を聴いていた編集者さんが僕の話に感動したらしく、一般向けにぜひ本を書いてほしいとお願いされました。三度ぐらいお断りしてそれでも説得にきてくれる。最終的に出版社の幹部の方がいらっしゃって、それでは書きましょうかと出版することになりました。
この本がすぐに60万部のベストセラーになってテレビドラマにもなり「がんばらない」という言葉が流行語にもなりました。だからかもしれませんが、はじめての本といわれると『がんばらない』という感じがしています。
——一般向けにはじめて書いた本がいきなりベストセラーとなりました。世の中に受け入れられた要因はどこにあるとお考えですか?
鎌田:やはり「がんばらない」という言葉が日本人にとってはショックだったのではないでしょうか。日本人は「がんばる」という言葉が好きですから。日本には「がんばることが当たり前」のような文化があります。「がんばらない」ことがいけないような雰囲気がある。さらには、がんばってもがんばってもうまくいかない人にとっては「がんばらない」というフレーズが救いになったのではないでしょうか。
この本を出版した2000年は20世紀最後の年です。20世紀を一言でいえば「がんばる世紀」だった。戦争に負けてすべてを失い、がんばってがんばって日本を蘇らせようとした。焼け野原から奇跡的な経済復興をとげ、がんばって豊かな社会を作り上げた。
そして、がんばってがんばって豊かになった僕たちはふと気がついた。本当に日本は幸せになったのだろうか? 20世紀、日本人は馬車馬のようにしゃにむに働きつづけて経済的に豊かになった。でもその結果、日本に残ったものは虚無感ではないか。21世紀はただがんばって経済発展するだけではなく、精神的にゆとりのある、心の満足を得られる国を目指す必要があると思います。「がんばらない」というフレーズでちょっと小休止をいれましょうと。そうすれば、これからの未来にどう生きていけばいいかが見えてくる。
僕は裕福とはいえない家庭で育ってきたので、僕自身だれよりもがんばってきた。地域医療に心血を注ぎ、もともと不健康な方が多い地域を日本一健康な地域にして、累積赤字4億円の病院を立て直しました。公務員だからがんばっても給料は変わらないんですけどね(笑)。それでも必死にがんばる。僕自身が誰よりも必死にがんばる人だった。
そんなふうにがんばって生きてきて48歳のときに転機がおとずれます。僕はパニック障碍になりました。夜眠ることができなくなり、うつ状態になってしまったんです。病気になるまで僕は自分自身が強い人間だと思っていました。貧困の中から這い上がってきたので、誰よりも自分が強いと思っていた。でもパニック障碍になったとき、自分が普通の人間と変わらないことに気づきました。どんな人間でもがんばりすぎれば体を壊してしまう。それと同時に、がんばりたくてもがんばれない人がいることを知りました。「がんばらない」という言葉は、日本にいるがんばっている人、がんばりたいけどがんばれない人に対する語りかけであると同時に、自分自身に対する言葉でもあるんです。もちろんずっとがんばらなくていいという意味ではないです。たまに勘違いしている人がいますけど(笑)。「がんばらない」は「がんばりすぎなくていいよ」という呼びかけです。
——『がんばらない』は三回断ったのちに執筆を承諾されたとのことですが、その後はたくさんの著作を世に出されています。なぜでしょうか?
鎌田:僕が子どもの頃は、親にどこかへ遊びに連れて行ってもらえる環境ではなかったので、楽しみといえば図書館へ行って本を読むことでした。だから昔から本が大好きです。『がんばらない』の出版がきっかけとなって、いままで僕が経験してきたことを本を通して世の中の人に伝えたくなりました。他のお医者さんと違うかたちで地域医療に力をいれたこと、国際救援活動で世界中を飛び回ったこと、日本で普及していない頃在宅ケアをはじめたこと、末期がん患者のためにホスピスをつくったこと。僕の人生には世間に伝えたいことがたくさんあると気がついたんです。
著作が多い理由はもう一つあります。高校三年生のとき、父親に「貧乏人は働けばいい。勉強なんかするな」といわれました。それが悔しかった。その日から貧乏から脱出するため毎朝4時半に起きることをはじめました。いま僕は66歳ですけどいまでも4時半に起きる習慣を続けています。
4時半に起きて8時ぐらいまで誰にも邪魔されずに文章を書きます。文章を書くことがすごく楽しい。目覚ましなしで体が勝手に起きるので起床してすぐに書き始めます。推敲は夜にもしますけど、基本的に一番クリエイティブな朝の時間帯を執筆活動に充てています。海外の難民キャンプにいるときもそのリズムは変わりません。どの国に行っても現地時間の4時半に目が覚めていつも通り書き始めます。毎日休まずに書いているので自然に原稿が溜まってしまいますね。「次々によく本が出ますね」といわれますけど、原稿はたくさんありますから編集者さんに出版を依頼されるとノーとは言いづらい。
だけど、一時期本が出すぎたので今はブレーキをかけています。いまでも多数の出版社から次の本を依頼されていますけど、お願いして待ってもらっています。年に1,2冊出版するのが理想ですね。最新刊は『1%の力』(河出書房新社、2014年)です。出版点数を絞っているおかげですごく力を入れることができました。
「1%は誰かのために
生きてみませんか」
——9月18日発売の『1%の力』はどういった内容の本でしょうか?
鎌田:僕は年間120回ぐらいの講演を行っていますけど、その講演の中でここ4~5年は「1%は誰かのために生きてみませんか」という話をしています。人間はすぐに「自分自分自分」となりがちだけど、1%だったら他者のために行動できるのではないかという話です。
アメリカのカーネギーメロン大学である実験が行われました。被験者のお年寄りを自分のことだけを考えて生活しているグループと年間200時間のボランティアをしているグループに分けて4年間にわたり観察した研究です。結果、ボランティアをしていたグループは自分のことだけを考えているグループにくらべ、高血圧の発生率が40%も低かったんです。ボランティアという他者への行為は結果的にボランティアをした人自身に良い影響を与えていたのです。人間は心をもった動物なのでこういった現象が起こるのかもしれません。
また僕は長野県で「健康づくり運動」を40年間やってきました。もともと不健康な方が多く早死にされる方が多い地域を、平均寿命が日本一の地域に変えたのです。減塩運動とか野菜摂取量日本一などをやり続けて長寿日本一になりました。その後ある研究班が短期間で健康改善に成果がでたこの地域を調査しました。その結果、健康に影響を与えた一番の原因が、その地域の高齢者の就業率が日本一高いということにあると突き止めました。要するに、生きがいをもって生活することが健康の秘訣だったのです。生きがいを大切にしてそれを維持する。そのために必要なものが「誰かのために生きる」という社会的な行為です。
近年僕が言い続けてきた「1%は誰かのために生きてみませんか」というフレーズは、家庭の中に血を通わせ、職場の中に血を通わせ、地域の中に血を通わせることができる。自分ではない誰かのために1%でも行動したときに、家庭の空気も、職場の空気も、地域の空気も変わっていく。そこから日本全体の空気も変わっていくと信じています。だから1%の行為には力があるのです。
100%からさらに「もう1%」、
101%で新たな物語が生まれる
鎌田:緩和ケアがはじまっておじいちゃんの痛みを取り除くことはできました。でも、ご飯を食べられる状態ではありませんでした。すると、おばあちゃんがもう一回おじいちゃんを家に連れて帰りたいとお願いしてきました。僕も家に帰れば気分転換になってもうちょっと元気になるかと思い快く送りだしました。
家に帰ったおじいちゃんは、自分がいつも座る席に座って夕日が落ちるのを眺めていた。おばあちゃんはおじいちゃんに何かご飯を食べてもらいたくて夕飯をつくりはじめる。そのとき不意にまな板をトントン叩いている音が聞こえてきた。何十年も毎日聞いていたはずなのに一度もトントンという音を意識したことはなかった。いま死を覚悟して久しぶりに家に帰り、お勝手でおばあちゃんがまな板を叩いている音に改めて聞き入った。そのうち電気釜のご飯も炊けてきて、シューという音がする。おじいちゃんは何となくご飯ができた匂いを感じる。そんなことはいままで何度もあったはずなのに、今日ほどその音を意識したことはなかった。その出来事をおじいちゃんが病院に帰ってきてから僕に報告してくれました。
「先生、食べれたよ。お茶碗に3分の1ぐらいだけど、うまかった。もう思い残すことはありません」
その話を後ろでおばあちゃんが聞いていて、おばあちゃんも自分では意識していなかったけど、おじいちゃんが久しぶりに家に帰ってきて嬉しかった。無意識だったけど、いつものトントンとは違っていたかもしれないと。おじいちゃんは100%生きたからもういいよといっていた。だけど「もう1%」愛する人が応援をすることで新しい物語が生まれます。
人間は一人で生きていけない動物ですから、人と人との関係がものすごく大事です。この本は「人間の関係」を書いています。0%から1%の行動をすると新たな変化が起きる。1%だけ視点を変えてみると人生につまずいている人もそれを乗り越えることができる。100%やったからもういいやではなく、100%やったからこそさらに「もう1%」やってみる。すると人生の新たな物語がはじまるんです。
1%だけでも
誰かのために生きようとすると、
自分自身の生きる意味が見えてくる
鎌田:この本に収録されているエピソードをもう一つお話ししましょう。ある学校の養護の先生が胸膜中皮腫という難病を患いました。彼女は医師にもう助からないといわれ余命半年と宣告されましたが、そこから6年10ヶ月生き抜きました。
すごく明るくて生徒さんに人気のある先生でした。授業が嫌で教室に行けない生徒が保健室には来るそうです。それで先生と会話をして「元気が出た」と言って教室に戻って行く。
薬の副作用で脳梗塞になり、絶望的な状態のときが何度も何度もありました。そんなときでも信じられないほど明るい人でした。子どもたちにからわれて「昼間の便所の100ワット」とあだ名をつけられたそうです。「意味なく明るいと言われたんですよ」と、そのことを自分自身の笑い話にしてしまう。そんな器の大きな人です。
病状がひどくなり彼女が職を辞したいと言ったとき、校長先生は「やめる必要はない。君の存在はとても大きい。子どもたちに病気と真正面から闘っている姿を見せてあげてください。そして必ず学校に戻ってきて命の授業をしてください。待っています」と応援してくれました。
末期になっていよいよと思ったとき、校長先生は子どもたちのために命の授業をして欲しいと彼女に依頼しました。それを聞いて養護の先生は奮い立つんですよ。結局、最後の授業はできなかったんですけど、子どもたちに「最初で最後の私の命の授業」という原稿を残します。そこには大切な3つのことが書かれていました。
「自分の命を全うしよう」「毎日を感謝しよう」そして3つめに僕の言葉を引用して「1%は誰かのために生きてみよう」。「自分のためにまるごと生きてもいいけど、いつでも1%だけは誰かのために生きてください。すると生きることがなんとも楽しくなったり、面白くなったり。そのうちに生きる意味が見えてきます」
この先生は今年の夏亡くなりました。先生は自分でももう十分生きたと思っていました。それでも、最後の最後でもうギブアップと思ったとき「子どもたちに命の授業をしてください」ともう1%の後押しを校長先生がしてくれました。最後の授業はできませんでしたが、最後の授業の文章は残すことができた。
実は今度僕がその命のバトンを生徒さんに渡すことになっているんです。今年の10月24日に彼女の学校に行って僕が「命の授業」をします。養護の先生が生徒たちに伝えたかった想いを僕が伝えてきます。
彼女と6年10ヶ月付き合って気づいたことがありました。彼女は「便所の100ワット」ではなく「便所の101ワット」ではないか。100ワットはそれ自体も確かに明るいけど、その上にさらに1ワットつくだけで輝きがぜんぜん違う。その輝きの変化が子供たちに影響を与え続けることができる。
だから100ワットで十分だと思うのではなくて、101ワットがものすごく大事。たかだか1%ですが、その1%がとても大切です。そのことを伝えたくて、すべて1%にまつわる話でまとめて『1%の力』という本にしました。
1%だけでも誰かのために生きようとすると、自分自身の生きる意味が見えてくる。自分自分自分と思っているときよりも、誰かのために何かをしているときの方がちょっと嬉しくなったり、元気が出てきたりする。自分が苦しくてギリギリで生きていると愚痴をいったりしてしまうけど、そんなときこそ誰かのために1%生きてみる。すると生きるのが少し楽になると思いますよ。
——今日は貴重なお話ありがとうございました。