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365日、
作品の構想を練る日々

西村京太郎さん

Kyotaro
Nishimura

西村京太郎さん

(トラベルミステリーの雄)

作家になるまで経験した
職業は数知れず……

歪んだ朝

——今年の8月末現在での著作が474冊と伺っています。

まさしく日本を代表するトラベルミステリーの第一人者・西村京太郎先生に今回、

お話を伺う機会をいただきありがとうございます。西村先生は、昭和38年に 『歪んだ朝』で「オール讀物推理小説新人賞」を受賞して作家デビューされた わけですが、作家になろうと思われたたきっかけを教えてください。

西村:もともと作家になりたいと思ったわけじゃないんです。ぼくは昭和23年に電気工業高校を卒業したんですが、エンジニアになるつもりでした。ところが、卒業したのは終戦直後の就職先もあまりない時代。たまたま新聞で「公務員募集」をしていることを知ったんです。それが第1回の公務員試験でね、ちょうど新設したばかりの人事院に志願したら、幸運にも受かってしまった。

——じつに狭き門だったのではないですか?

西村:そう。それこそ働き口のない時代だったから、おふくろなんかは大変喜んでくれましたよ。

 ところが、ぼくはそこに11年いただけで公務員を辞めてしまうんだけれど、その人事院時代に「パピルス」という同人誌を友人と作っていたんです。その友人というのがすごい文学青年でね、彼が小説を書いて、ぼくはガリ版係で挿絵も描いていたの。その友人が書く小説はおもしろくてね、てっきり作家になるんだろうと思っていたら、新聞記者になってしまったんです。

——先生が作家になられたのは、そのご友人からの影響もありますか?

西村:そうね。同人誌「パピルス」を創っている頃に、よく二人でゲームをやっていたんです。どんなゲームかというと、有名な小説の書き出しを朗読して互いにタイトルを当てっこするの。例えば「きょう、ママンが死んだ」とかね。カミュの『異邦人』冒頭1行目の有名なセリフですが、そういうゲームを互いにやって遊んでいました。その頃は作家になろうという意識はまだなかったんだけれど、いま思い返せば、そのゲームだって、ぼくが原稿を書くうえで役に立っていると思います。じつに楽しい時代でした。

——人事院を辞めるきっかけは何だったんですか?

西村:このままずっと公務員生活をするのは、性格的に合わないと思ったんです。ちょうどその頃は松本清張さんの『点と線』や黒岩重吾さんの『背徳のメス』が売れ始めていたんです。で、こういう小説だったらぼくにも書けるんじゃないか、今、書いてぱーっと有名になればいいじゃないかってね。そんな無謀なことを夢見て辞めてしまったんです。人事院の退職金を生活費に充てながら小説を書いて、どこかの懸賞に応募すればいいとね……。

 ところが、いつまでも経っても選ばれないの(笑)。それで困ってしまって、住み込みでパン屋さんの運転手になったり、府中競馬場の警備員や私立探偵、生命保険のセールスなど、いろんな仕事に就きました。それこそ経験した職業は数知れず、といった感じの生活がしばらく続くんです。

——そのような苦難の時代を過ごされても作家をあきらめなかったのですか。

西村:そうね。おふくろには内緒で公務員を辞めてしまったから、それがバレた時には大変で泣かれてしまったけど、働きながら小説を書くのは苦ではなかったですね。さすがに、いろんな懸賞小説に応募しても通らなかったので少し焦りはしましたが。ただ、書くことに飽き足りなかったから、よかったんでしょう……。

 忘れもしない昭和38年にようやく「オール讀物」の新人賞をもらったんです。その2年後に『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞を受賞して、ご褒美に次作の長編を書かせてもらいました。でも、これがあまり売れなかったんです。

——どんな小説だったんですか。

西村:『D機関情報』というスパイ小説で、初版は3500部ぐらいでしたが、これが売れなかった。だから、賞はもらっても作家一本で食べていけるようにはならなくて、八方ふさがりの時代が続くんです。

 昭和42年頃だったか、総理府(現・内閣府)が「21世紀の日本」と題した芸術作品を募集したことがありました。その小説部門の1等賞(総理大臣賞)賞金がなんと500万円。相当な大金ですよね。今度ばかりはどうあってもその賞を取って親孝行したいと決心したんです。本当にぼくとしては必死だった。

——見事に1等賞を射止められたんですよね。そこから作家として一本立ちできるようになったのでしょうか。

西村:いやいや、そんなにうまくはいかなかったの。くだんの1等賞である総理大臣賞は射止めたのだけれど、その後13年間ぐらいはまた売れない作家時代が続くんだから。それは昭和54年にトラベルミステリーを書くまでね。

——あの有名な「十津川警部シリーズ」ですね!

西村:ええ。しかし「十津川警部シリーズ」も初期の2、3作は売れなかったんです(笑)。十津川警部は大学のヨット部OBという設定になっていますが、それは初期の作品では十津川が鉄道ではなく海の事件で活躍するストーリーだったから。ヨット部OBという設定はその売れなかった海洋小説のなごりなんです。

 今になって後悔しているんですよね。なんで、十津川をヨット部OBにしちゃったんだろうって(笑)。もともと「十津川警部シリーズ」も3作ぐらいでやめるつもりでいたんです。それがこんなに長く続くなんて、本当に自分自身、驚いているくらいです。

執筆は年中無休

——先生の1日のスケジュールを教えてください。
西村:ひと月に1度のペースで、2泊3日の取材旅行に出掛けます。それ以外はお昼頃に起きて、午後は編集者と打ち合わせをしたり、来客の対応だったり、テレビや雑誌の取材を受けたりして過ごします。また、原稿を書くうえでの資料の準備や調べものをする時間にも充てています。実際に原稿を書くのは、夜の12時から朝の6時頃までなんです。
——まさしく昼夜逆転の生活ですね。
西村:そう。朝、少し空が白んでくる頃に奥さんが新聞を持ってきてくれるので、その新聞を読んでから、ようやくベッドに入って寝るんです。
——以前からこの執筆スタイルだったのですか?
西村:いや、途中から変えたんです。病気で倒れて入院していた時期があって、その頃から深夜に原稿を書くようになったの。昼間のほうが時間はたくさんあるんだけれど、見舞客やら来客がやたら多くて、落ち着いて書いていられなかったんです。出版社の連中はもちろん、何とか村の者だけれど、今度の作品の舞台にしてほしいから、ぜひ取材に来てほしいとか、そんな依頼や陳情をもってやたら訪ねてくるんだよね……。
——今年9月に80歳を迎えられて、ますますお元気な西村先生ですが、たくさんの作品をお書きになられて、これまで題材に困ったことはないのですか?
西村:よく訊かれますが、ネタに困ったことはないですね。いつもなにかしら頭で考えているんですよ。新聞やテレビを観たりしていても、頭のどこかで考えているから、気になったことはノートに書き留めておくようにしている。これも作家の習性なんでしょうね。
——週刊誌の記事などは、作品の参考にしたりなさるんですか。
西村:出版社からいつも送ってくるけど、あまり読まないなあ。ネタの参考にはならないからね。記事が小さいでしょ。それに比べて、新聞はおもしろいですよ!
——新聞記事のどんなところが参考になるのでしょう。
西村:社会面や政治面も読むけれど、それは小説のネタにならないの。むしろ、特集記事なんかがいいですねえ。たとえば「富士山」を連載で特集していたら、富士山を一番良く見られる所はどこか、何とか山から見えるとか、そんなことを紹介している記事を切り抜いておくんです。もちろん、それ自体ではストーリーとしては活かせないけれど、作品の出だしには使えるでしょ。ぼくの作品は連載が多いから、出だしがスムーズに書ければいいんです。だいたいぼくの書き方は最初と終わりは決めておいて、途中の展開は書きながら考えるというスタイルなんです。
 先ほどの例のように原稿に使えそうな新聞記事を切り抜いて、手帳にペタペタ貼っておくんです。何年か前に、和歌山で電車が転覆する事故がありましたね。あの時初めて、医者が迅速に対応するために、乗客のケガの度合いを区別するために黄色とか赤色とか色で分けていました。各色のラベルを貼付けてね。ぼくもその方法を真似て、記事をラベルとして手帳に貼付けているんです。
——それは、以前からの習慣ですか?
西村:いや、そんなことはしなくても、昔はちゃんと頭で覚えていましたよ(笑)。でも、最近は忘れてしまうから、この方法を採っているんです。まったく使えないメモもありますが、そんなふうに貼り付けた手帳が1年に1冊ずつ溜まっていく。たまにストーリー展開に困ったときは、それらの手帳をパラパラめくって見ることもあるんですよ。
——先生は連載モノが多いと伺いましたが、現在は何本くらいかかえていらっしゃるんですか?
西村:12本かな。
——ええ、そんなにですか!?
西村:そうですよ。だって、どこの出版社も一冊ぐらいは文芸雑誌をもっているでしょ。いまは12の出版社と付き合いがありますからね。
——では、1枚も原稿を書かない日はないということですね。
西村:連載はどれも10月で終わりますから、いつも11月、12月は比較的時間に余裕があります。でも、そのサイクルを知っている出版社や新聞社からは書き下ろしの小説を頼まれることも多いんです(笑)。そういう意味では毎日何かしら書いているか、作品の構想を練っている感じですかね。
——先生に書き下ろし作品をお願いするには11月、12月がチャンスということですね(笑)。
西村:もうダメですよ(笑)。講談社や角川書店などから、創立何周年記念とかで書き下ろし作品を頼まれると断れないんです。なにしろ古い付き合いの出版社ばかりだからね……。何十年もの古い付き合いになると、ずっと担当編集者だった人が独立した際に書き下ろしを頼まれることも多いから、結局、何かしら原稿を書いていることになるかなあ。

時代につれて変わってきた
編集者との付き合い方

——必然的に、担当編集者とも古いお付き合いになるんですね。
西村:そうね。みんな20年とか30年の付き合いになりますかね。そういう編集者が定年間近になると、担当編集者の2代目を連れてくるのね。30代とか40代前半の若い編集者をね。でも、そういう年代とは話があまり合わないんだよね(笑)、ぼくは……。
——先生はシャイな方だから、余計にそう感じられるのでしょうか。
西村:そういうこともあるかもしれないけれど、一番は最近の若い編集者たちは麻雀をやらないからだと思います。ゲームとしてならルールは知っているようですが、実際にはやらないらしい。最近は雀荘も減っているようだから仕方ないんでしょうが、麻雀好きな私としてはちょっと寂しいね(笑)。昔の学生なら大学の授業もそっちのけで雀荘に入り浸り、なんてことも結構あったんだけど、これも時代かなあ。
 時代といえば、僕らの若い頃は麻雀の他にビリヤードもやっていたけれど、それもあんまりやらないらしいの。じゃあ、なにやっているの? と、こちらが訊けばゴルフとか応える。飲みにもあまり行かないみたいですよ。

——そういえば、作家の方々も銀座にあまり飲みに行かなくなったと伺いましたが……。
西村:僕はもともとお酒を飲みませんが、昔は六本木や銀座に行けば、知り合いの作家や編集者によく会ったものだけれど、最近はそれも少なくなったらしいね。ついこの間も北方謙三さんが「飲みに行っても、知っている連中に会わなくなった」って話していましたね。銀座などのバーで飲まない人たちが増えているんでしょう。不況ですから、その影響もあるのかなあ。ぼくらの時代に比べて、最近の若い作家さんたちの飲み方も変わってきているようだから……。
——出版社との付き合い方も変わってきているのでしょうか?
西村:そうですね。作家さんによってはグループを作り、弁護士さんを通して出版社と出版契約を結んだりしている例もあるようだからね。昔のように、意気に感じて仕事をするということが少なくなったような気がします。作家が売れない頃から出版社が面倒を見るという時代がありましたけど、今は出版社自体に余裕がなくなっていますからね。とにかく、すぐに売れる人をつかまえて本にする、みたいな感じなんでしょう……。芥川賞を取ったからといって、その作家をじっくり育てていくということも少なくなったようです。
——たしかに文学賞を取ったからといって、その作家の将来を保証されたわけではないんですね。
西村:難しい時代だからね。何がヒットするかわからないもの。作家もわからないし、編集者も出版社もわからない……。
——そんななかで、西村先生は第一線で活躍し続けていらっしゃいますが、その秘訣はいったい何でしょう?
西村:本来ならば、月に12本も連載をかかえてまで原稿を書かなくともいいんですよ。税金対策といった意味からもね(笑)。以前、税理士から聞いたところでは年収3000万ぐらいがちょうどいいらしいから……。
——先生はそんなことはお考えにならない!?
西村:考えてもしょうがないからね。昔はね、毎日書かないと流行作家ではない、といわれたもんです。でも、今では年に2、3冊本を出して、勤め先も辞めないという"二足のワラジ"の作家さんもいるくらいですから。
——おっしゃるとおり、作家一本で食べていくのは難しい時代ですね。先ほど伺ったお話と重複するかもしれませんが、先生が作家で食べていけると確信なさったのは、いつ頃でしたか?
西村:光文社のカッパ・ノベルスで書き始めた頃かなあ。当時、カッパ・ノベルスに書く作家さんといえば松本清張さんのような流行作家に限られていた時代です。それが、新人にも書かせてみようということになって……。その時ですね、これで少しは原稿で食べていけるかなと思ったのは。それまでは初版何千部の世界だったのに、カッパ・ノベルスは何万部ですからね。ホント、大きかったです。
——先生がおいくつぐらいの時ですか?
西村:40代ぐらいだったかな。スーパーカーブームやブルートレインブームのあった70年代後半の頃だと思います。その後、「十津川警部シリーズ」最初の鉄道ミステリー『寝台特急殺人事件』(光文社カッパ・ノベルス)がベストセラーになりました。
——先生はトラベルミステリーの分野を築かれ方ですが、もともと旅はお好きでいらしたのですか?
西村:若い頃はふらっと鈍行列車に乗って、気の向くまま旅に出ていましたから、旅は好きでした。時刻表どおりの旅がきらいでね。いまでいう「青春18きっぷ」みたいな感じがいい。
 ぼくは鈍行列車のボックス席が好きなんです。その土地の人が「どこから来たのか?」とか「どこへ行くの?」とか話し掛けてくれたりして。おばあさんがミカンをくれたりして。それが楽しいんだね。特急列車では味わえない光景で、いい思い出です。
 もちろん、その頃は旅行を題材に原稿を書こうとか、作家になろうなんて考えもまったくなかった。まだ二十歳ぐらいの若造でしたからね。

——作家になられたのは、子ども時代から作文が上手だったとか、読書家だったというようなことがあったからでしょうか?
西村:いいえ、僕の子ども時代は戦争中でしたからね。14歳で終戦を迎えましたから、まさしく軍国少年。でも、本は少し読んでいましたね。甲賀三郎というミステリー作家のスパイ小説や、平田晋策の『新戦艦高千穂』とかを夢中で読んだものです。今の若い人は知らないでしょうが……。

時代物の書き下ろしも……

——トラベルミステリー以外の本も読んでみたいファンは、たくさんいらっしゃるのではないですか?
西村:ぼくは戦争の頃の話を書きたいと思っているんです。本土決戦のあたりのことをね。最近、その頃の話がやたら出てきていますからね。当時の関係者の方たちは亡くなられていますが、遺書や手紙などの手がかりが残されているので、それらの記録を参考にしながらまとめていくつもりです。
——その作品はいつ頃出版される予定ですか?
西村:うーん。それがね、なかなか難しくて、しばらく時間がかかりそうです。いろいろな事情でただ今ストップしているところ。ほかにかかえている原稿がたくさんあって、その締め切りに追われている感じなんです。
昔から時代物を書きたいと思っているんです。でも資料やら何やら原稿を書くまでの下準備が大変でしょう。 たとえば、江戸時代を舞台にしようとしたら、古地図も必要ですよね。資料にしても、蕎麦の値段とかもその年によって違いますから、下調べは重要です。司馬遼太郎さんが作品を書く時には、神田の古書店の本がゴソッとなくなった、なんていうエピソードがあるくらいですからね。

——先生のお好きな時代は?
西村:江戸時代かな。江戸時代を舞台にした小説を読んでみると、「拙者は……」なんていっていますが、はたして、本当にそんな言い方を日常したのかな、なんて思ってしまいますね。文章など記録として残っていたとしても、実際の会話ではどうだったのか、とか疑問に思います。
 いま、時代物がブームなのか、やたら出ているでしょう。小説にしてもテレビドラマにしても。なんだか、時代物にすると売れると思っているのかもしれないですね。

——他の作家さんが書いた作品を読まれることはあるのですか?
西村:作家さんによっては他の作家の読まない人もいますが、ぼくはいろいろな人の作品を読みますよ。その作家さんの世界に入っていけるから好きなんです。最近なら、佐伯泰英さんの書かれた「磐音シリーズ」を読みました。付き合いのある編集者に、どんな人の本が売れているのか訊いたら、佐伯さんの時代小説の文庫をもってきてくれたんです。
——読まれていかがでしたか?
西村:そうか、こういうものが皆さんに受けているのか、と思いました。ストーリーは単純でも、じつに読後感がいい。爽やかなんですよ。若い剣士が主人公で、相手の若い女性はひたすら純情で、その二人の間にお金持ちのちょっといじわるな女性が恋敵として登場するの。そのなかでいろいろな事件が起きるのだけれど、わかりやすい展開だから安心して読み進められるよね。そういうストーリー展開は明治の時代からあって、いわゆるヒットの法則みたいなものなんです。
 ぼくら子どもの頃は戦争中だったから、おもしろい小説は少なかったけれど、唯一『姿三四郎』という作品はおもしろかった。新聞の夕刊に連載されていてね、みんな楽しみに待っていたくらい人気でした。これもストーリーが単純で、ヒットの法則にぴったりあてはまるんです。
 すべて予定調和なんですが、読んでいる時はこの女性と結ばれてほしいな、とみんなが思いながら読んでいくわけです。ハラハラ、ドキドキしながらね。
 『姿三四郎』の舞台は明治時代ですが、佐伯さんの作品は江戸時代。主人公がキザなことをいっても、江戸時代ならさらっといえるんですよ。

——そうすると、ヒットの秘訣の一つは単純なストーリー展開にあり、ということになりますか?
西村:うーん、そうともいいきれないですよ。たとえば、司馬さんが書くと歴史文学といった重厚な感じになるからね。ぼくはとくに時代小説が好きだから、先ほどの佐伯さんの作品のように、今の時代に売れているんだったら、どのあたりが読者に支持されているのか、ぼくなりに考えながら読んでいます。
 北方謙三さんの『三国志』も読みましたよ。ご存知のように『三国志』は、いろんな作家さんが書いていますが、北方さんの作品を読むと、登場人物のだれを好きなのかがわかります。なぜなら、その人物が登場する場面になるとじつに活き活きと書かれているからね……。他には、陳舜臣さんの『三国志』も読んだりして、作家さんによって描写の違いを味わうのも読書の醍醐味でしょうね。

——こうして伺っていると、日中は取材や調べもの、夜は執筆と一日24時間あっても足りないくらいにお忙しい先生ですが、何か気分転換になることはありますか。
西村:定期的に行く取材旅行かな。先日は京都へ行ってきました。ぼくは20年ぐらい京都に住んでいたんですが、最初の5、6年は京都の人たちからは余所者扱いでね。じつに京都との付き合いは難しいんです。 でも住めば都で、だんだん京都の良さがわかってくるんですね。いまでは、ぼくにとっては魅力的な場所になりました。

いつも読者目線を忘れないことです

——最後に、本作家をめざしている人に西村先生からアドバイスをお願いします。
西村:たぶん、いまの若い人は、作家は自分の書きたいものだけを書くものだと思っているでしょうが、それでは売れません。独り善がりの作品ではダメですよ。読者にサービスするつもりで書かないとね。これは、僕自身の体験からわかったことです。書きたいものを書くとしても、いつも読者目線を忘れないことです。 それが最初はわからないんですね。自分の中だけで楽しんで満足している感じでね。向こう側にいる読者の存在をまったく忘れているんです。実際にそういう書き手があまりにも多いですね。
 工夫をすることです。視点を変えてみる、プロローグを工夫するとかね。いつまでも自分の作品に酔っていては、人を感動させるものは書けません。

——西村先生だからこその含蓄のあるお言葉だと思います。本日は長時間にわたりお話を伺うことができました。ありがとうございました。

プロフィール

西村京太郎

さん

(ニシムラ・キョウタロウ)

1930年東京生まれ。トラベルミステリー作家の第一人者で著作は450冊を超える。65年『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞、81年『終着駅殺人事件』で日本推理作家協会賞受賞。2005年に第8回日本ミステリー文学大賞を受賞。今年(2010年)、第45回長谷川伸章を受賞。最新刊に『上野駅13番線ホーム』(光文社文庫)、『十津川警部 君は、あのSLを見たか』(講談社ノベルス)、『京都 恋と裏切りの嵯峨野』(新潮文庫)などがある。

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